原作:PETER HANDKE/訳:龍田八百/「カスパー」より引用
「カスパー」は、ペーター・ハントケ作の戯曲「KASPAR」のこと。
『DOTOHのカスパー善でありたい』は、男闘呼組のアルバム『5-1…非現実』に収録されたトラックであり、一般的な楽曲の枠組みに収まらない実験的作品である。シンセサイザーと打楽器による不穏な音響を背景に、冒頭から終始、小さく抑えた声で繰り返される「善でありたい……」という囁きが印象的である。
この作品の構成は主に朗読による詩的モノローグで成り立っており、高橋和也が中心となって語りを担い、「みんなの言葉」や「人間なら〜〜」という集団的なスローガン的反復には他メンバーも参加している。
本作は、1992年に高橋和也が出演した蜷川幸雄主宰の舞台『1992・待つ』(ニナガワカンパニー)の一編に由来する演出をベースに制作されたとされている。『待つシリーズ』は日常の中の非日常を描く短編集であり、本曲の詩的断章のような構成もそれと深く呼応している。
中心となる朗読パートには、ピーター・ハントケ作『Kaspar』(1967年初演)の日本語訳(1984年・龍田八百訳・劇書房)からの引用が多数含まれている。詩的で印象的なモノローグの多くは龍田訳に存在しており、楽曲ではその構文を生かしながらも順序を入れ替え、簡略化した形で再構成されている。ただし、タイトルに用いられ、曲中でも反復される「善でありたい」という語句だけは、原作にも龍田訳にも存在しない完全な創作である。
『Kaspar』は、言語を知らずに育った青年が社会的言語を刷り込まれる過程を描いた実験的戯曲である。原作はドイツ語で書かれ、英訳(Michael Roloff 訳)は原文の構造や反復を忠実に保持しており、最も原作に近いとされる。一方、龍田訳は舞台台本としての機能性を重視し、詩的で感情豊かな再構成が施されている。
たとえば「この世に 誕生して ぼくは 何をつかんだのだろう1」「物は ぼくを脅かし2」「世界は 神経を苛立たせるだけだった3」「酔払いのように 意識はなく4」「激しく吐き続けた」「痛みだった」などのセリフは、いずれも龍田訳『カスパー』に登場する表現を基にしており、曲中ではその語りのリズムと視点を保ちつつ再構成された形となっている。これらはカスパーの孤立、不安、制度への違和の感覚を象徴しており、原作のテーマを的確に音声として抽出している。
「善でありたい」というリフレインは、原作には一切登場しないが、カスパーが繰り返し唱える「I want to be like somebody else once was(昔だれかがそうだったような人間になりたい)」という訓練の出発点と構造的に響き合っている。善であろうとすること、それが自発的願望なのか、社会によって内面化された命令なのか——その曖昧さこそがこの曲の核である。
終盤で繰り返される「人間なら 自由に生きよう」「人間なら 成長しよう」「人間なら 愛されよう」などのスローガン的言葉は、英語原作の終盤(Scene 64–65)において複数のカスパーたちが機械的に言葉を発し続ける構造に呼応している。そこでは、意味の空洞化した言葉がただ反復され、制度と教育によって構築された「人間らしさ」の虚構が暴かれていく。
『DOTOHのカスパー善でありたい』は、単なる朗読パートではなく、原作の構造・テーマ・言語への懐疑を再構成し、日本語という言語空間に落とし込んだ野心的な実験作品である。「善でありたい」という言葉のなかに、願いと命令が同居し、個人と社会の境界が滲んでいく。この作品は、音のかたちをした思考であり、詩としての演劇であり、演劇としての音楽である。